諦念、あるいは

 

 

    ぜんぶ嘘だった。 あるいは幻だった。 それは自分自身が創りあげたものであり、学校のトイレの個室でひとり泣いていた自分を いつも大事なものを、強く握りすぎて壊してしまう自分を守るための要塞だった。  誰も手を差し伸べてくれなかったから、自分で自分の目を、耳を塞いだ。 そうやって楽になりたかった。可哀想になりたかった。惨めになりたかった。  5年間かけてついた嘘は、詰めが甘く、時折絶望を連れてきた。「    」「     」「   」どれもが一様に苦しかった。  求められることが苦痛だったし、求めることも不得意だった。  触れ合うことで傷が痛んだ。 なにひとつ、容認されてはいなかったし、また自分にとっても、他人のことばを享受することはあまりに難儀だった。 だって、どこかで起きた残酷で無慈悲な事件も、ステージの上できらきら輝くあの子も、終わってしまった恋も、ぼくのものではないのだ 今までもこれからも。  目を限界まで見開いたところで、何かが見えるはずもなかった。  虚栄心が内包する自己否定 焦燥感 過剰な自己愛  人間である以上、二律背反を それさえあいしていくことでしか報われない。  文章も、夢も、分厚いカーテンも、グレーのカラーコンタクトも 自分を守るための鎧であり、自分を何より傷つける刃物であった。  幼稚なこのアタマでは、変わっていくことがこわくてたまらないし、地球上のすべての愛が、安っぽく思えて仕方がないんだよ

 


 去年描いた油絵は パースはめちゃくちゃ、光源もばらばら、奥行きも生気も感じられないひどいものだったけど 少なくとも12歳のときに木材の破片と木屑で作った、荒廃した街のモデルよりは周囲に愛されていた。

ぼくは今でも、あの10×25センチの上の、屋上に穴が開いたビルや、根元から折れた電柱を憶えている。 

      然るに、全てが、過去の話だ。 何もかもが終ろうとしている。